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わたしのすみか
第7回 はじめての一人暮らし 上田岳弘

僕が上京したのは、1998年のことで振り返ってみるともう22年前のことかと驚く。当時生まれた子供が既に成人しているんだなと考えると感慨もひとしおだ。この22年間、色々あったような、そうでもないような、ものごとの最中にいるときは、地獄やな、とふと関西弁でつぶやいてしまうような出来事は多々あったけれど、通りすぎてしまえば過去の話。思い出したくもない、と思うことの方がむしろ少ない、というかほとんどない。地獄ではなかったわけだ。

 上京するにあたって、部屋はとにかく安いところを探した。バイトをするつもりだったとは言え、一人暮らしは物入りだし、極力親に負担をかけたくなかったから、仕送り額も抑えてもらった。その方がカッコいいような気がしたからだが、親の身になれば、そんなことより勉学に集中せよ、と思っていたかもしれない。ただ、そんな風に東京生活を始めたものだから、今でもサバイブ感覚が抜けきらないところがある。

 探し当てたすみかは、西武新宿線沿いの駅前アパートだった。家賃は3万円。風呂はなかったが、共用シャワーがあって、その使用料と管理費が込みで月3000円だった。つまり、3万3000円でシャワー代も含め賄えることになる。間取りは4畳半と、玄関脇に流し台と一穴コンロがあり、窓の上に換気扇がある考えうる限り最も単純な作りのキッチンが2畳で、合計6畳半。値段の割には狭くなかった。線路脇に建っていたので、電車が通るたびにがたがたと揺れる、というのも家賃の安さに寄与していたのだろう。70代くらいの大家さんが101号室に住んでいて、月の終わりに翌月分の家賃を持っていく決まりだった。お手伝いの女性が通いできていた。どういう関係かはわからないけれど、大家さんが一人暮らしができなくなると、このアパートを売って二人で老人ホームに入るのだと言っていた。

 家具は最低限のものしか入れなかった。しずくみたいなカーブを持つ流線型のデスク。中古ショップで買ったビクターのコンポーネントシステム。本棚。僕と入れ違いに大学を卒業して実家に戻った兄にもらったテレビとビデオ。テレビは29インチのブラウン管テレビ。今でこそ40インチを越える液晶テレビが当たり前だけど、当時はブラウン管テレビで普通に買える大きさだと29インチは最大クラスだった。おまけに液晶テレビとは違って厚みもあった。東京の一人暮らしの部屋としてはそう手狭な方ではないとは言え、しかしその存在感、というか威圧感は圧倒的だった。なんだか今思えば統一感のないちぐはぐな家具構成だったと思う。けれど、僕は自分だけの秘密基地を手に入れたようで、その空間にいることがどこか誇らしかった。ここでは僕は誰にも邪魔されずに自由に過ごすことができるのだ。

 東京に移り住んで半年くらいは、友達もいなくて、一人で過ごすことが多かった。近所のレンタルビデオ店で映画を借りてそのテレビでよく観た。けれど、知識もまだまだ浅くて、流行りのハリウッド映画や、以前観たことのある馴染みの深い映画を繰り返し見る程度。それでも楽しかった。他にもコンポーネントシステムでお気に入りのCDをかけ、古本屋で買ってきた小説や漫画を読んだ。家族が多かったものだから、思う存分一人きりの生活を楽しんだ。けれども、そんな解放感も長くは続かない。ゴールデンウィークが終わって、上京したことの浮ついた気分が醒めてくると、妙な焦りを覚え始めることになる。なんだか、自分だけが上手く大学生活になじめず、取り残されているような気分になった。今となってみれば、それはおそらくは若いうちには誰もが覚えるありきたりな焦燥感だ。そして焦燥感を覚えるのは悪いことではない。

 結局そのアパートは1年ぐらいで引き払い、同じ沿線上のもう少し新しいアパートに移った。その後も何度か引っ越しをしたけれど、最初の一人暮らしのあのボロアポートのことは今でもたまに思い出す。


 社会に出て、何年か経ったある日、仕事の都合で近くまで行ったので、ついでにそのアパートを見に行った。そこには当時のアパートとは、似ても似つかない5階建ての瀟洒なマンションが建っていた。僕はそのマンションを見上げながら、大家さんとお手伝いのおばさんのことを思った。





うえだ・たかひろ
1979年、兵庫県生まれ。早稲田大学法学部卒業。2013年、「太陽」で新潮新人賞を受賞しデビュー。15年、「私の恋人」で三島由紀夫賞を受賞。16年、「GRANTA」誌のBest of Young Japanese Novelistsに選出。18年、『塔と重力』で芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞。19年、「ニムロッド」で芥川龍之介賞を受賞。著書に『太陽・惑星』『私の恋人』『異郷の友人』『塔と重力』『ニムロッド』『キュー』など。