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わたしのすみか
第8回 夜逃げの終点 桜木紫乃

すみかーー年がら年中、登場人物の名付けに悩んでいるため、このお題をいただいた瞬間に思ったのが「スミカさん」もいいな、だった。

 実は四十を過ぎるまで同じ家に十年続けて住んだことがなかった。お陰で人の顔は覚えていなくても間取りだけはいくつも頭にストックがある。これがけっこうな財産だったと気づくのは、小説を書き始めてからだった。

 父が身の丈に合わぬ借金を繰り返し、娘のわたしが小学校一年のときから始まった「ほぼ夜逃げ」生活。気づくと別の家、あるいは別の土地、というのが数回。そのせいか小学校に通えていない時期があったらしく「算数」がとても厳しいレベルだということに、小説を書き始めてから気づいたのだった。算数には、わたしのなかに「すみか」がなかったのだと今は半分あきらめているが、担当編集者は原稿に数字が出てくるたびにドキドキしていることだろう。

 いや、話がそれた。父の借金による家移りは、そのまま彼の趣味のようでもあった。新しい家はたいがい古民家一歩手前(なのでとてもたちが悪い)の築40~50年。家自体にはほとんど価値がなく、更地にするともっと金がかかるゆえ家があるまま買ってくれたら安くしますぜ、という物件ばかりだった。

 購入後、父はその家を自分でリフォームする。理髪店の仕事の傍ら、時間が空くとノコギリと金槌であちこち切ったり削ったり繋いだり。一度、トイレの隣にある扉を開けると物置で、その物置を抜けると向こう側に貸部屋がある、という家に住んだことがある。

 突然ひらける別空間は、父が大工仕事に飽きたことが原因だった。手つかずの貸部屋を本当に貸してアパートを始めたのはいいが、セキュリティという点で恐ろしく甘い家だった。

 印象深い夜逃げのひとつに「行った先にまだ住人がいた」というのがあった。

 家に入ったほうも驚いたが、入って来られたほうもさぞびっくりしたことだろう。大人たちは夜中までごちゃごちゃと言い合っていたが、こちらはもう引き払って(逃げて)来ているので戻る場所がない。仕方なく一週間ほど同じ屋根の下に暮らした。

 理髪店舗の裏側に茶の間があって、広い台所がある家だった。父はよくその台所で、密漁した鮭をさばいていた。

 その家の二階には、今思えば大宴会場にでもなりそうな部屋が廊下の両脇にあって、ふすまで仕切られた一角には「開かずの間」も。決して入ってはいけない、と言い含められていたのだが、ある日どうしても見てみたくなり、ふすまを開けたことがある。

 天井までうずたかく積まれていたのは、機織りの機械ではなく、くだんの住人の残していった生活道具だった。出てゆくほうにもいろいろな事情があったのだと、今ならわかる。

 突然の家移りではあったが、その家を世話したひとが誰だったかも覚えている。6歳でもそこそこ大人の会話は理解し、その内容で充分に事の流れは把握できた。誰が悪いという話でもなかった。当時はみんな自分のことで手いっぱいだったのだ。

 父のリフォーム技術はさっぱり上がらなかったが、自力で風呂を作った心意気だけは本物だった気がする。雑品屋(昔はそういう商売があった)から買ってきた湯船に、鍋で沸かした湯を溜めて水で薄めて入る「風呂」には栓がなく、父がすりこぎを削って作った棒が刺さっていた。

 数年前、ちいさいながら仕事場を得た。ひとつしかない窓からは、公園の緑か雪景色が見えるのみ。住宅街でのささやかな贅沢を楽しむこの土地は、夫の財形貯蓄を解約し350万で買った。整理整頓と掃除の苦手なわたしの仕事場にやってきた担当者は、一様に「ああここが桜木さんの居場所なんだなあ」という顔をする。転勤族の夫について歩いて、子供たちが巣立ち、やっと得た「すみか」が仕事部屋であることの幸福をかみしめている。部屋を飾るものは、窓以外なにもない。





さくらぎ・しの
1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」でオール讀物新人賞を受賞。07年同作を収める『氷平線』で単行本デビュー。13年『ラブレス』で島清恋愛文学賞を受賞。同年7月『ホテルローヤル』で直木賞を受賞。主な著書に『星々たち』(小社)、『起終点駅(ターミナル)』、『裸の華』、『ふたりぐらし』、『緋の河』などがある。