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わたしのすみか
第12回 いつまでも変わらないものはない 古内一絵

 その店は、商店街の裏路地の奥にある。

 人ひとり、やっと通れるような細い道。こんな狭い路地の奥にお店があるとは、ほとんどの人は思ってもみないだろう。

 だが、野良猫にでもなった気分で裏路地をたどっていくと、そのお店はこつ然と現れる。

 小さな中庭を持つ、古民家のような一軒家――。

 こう書くと、それは、お前が書いた小説「マカン・マラン」シリーズに出てくる夜食カフェではないのかと言われてしまうかもしれない。

 実のところ、そこは「マカン・マラン」のモデルとなったお店だ。小説の中では夜食カフェだが、実際にはランチカフェのお店だった。

 私がこのお店に出会ったのは、ちょっとした偶然がきっかけだった。商店街をぶらぶらと歩いていたとき、眼に入った「ランチ」とだけ書かれた小さな看板。

 こんなところにお店があるんだ――。

 好奇心に駆られて足を踏み入れたものの、古いアパートが立ち並ぶだけの路地裏には、お店があるような気配がない。多くの人は、この段階で引き返してしまうと思う。

 しかし、当時の私は、長年勤めていた会社を早期退職したばかりの中年ニート。お金も地位もないけれど、時間と好奇心だけは、あふれんばかりに持っていた。

 果敢に突き進んでいった私の眼の前に現れたのは、殺風景な都心の路地裏とは思えない、鮮やかな新緑だった。

 小説の夜食カフェの目印はハナミズキだが、実際中庭にあったのは、大きなモミジの木だ。モミジの根元にはシダやクワズイモが旺盛に茂り、さながら南国の庭のようだった。

 古民家の居間をそのままお店にしているカフェは、高齢のオーナーがたった一人で切り盛りをしていた。メニューは二種類で、メインに魚か肉かを選べる。

 ある日のメニューを振り返ろう。

 蕪とブロッコリーのサラダ、小松菜の胡桃あえ、ゆず味噌を載せた風呂吹き大根、油揚げのお味噌汁、豚肉のプラム煮、土鍋炊きのご飯……。

 数々の色鮮やかなおかずが載ったお皿が、テーブル一杯に並べられた。

 一度で虜になった私は、毎日のようにその店に通うようになった。

 次に私が心を惹かれるようになったのは、オーナーをはじめ、ここに集まる「人」だった。

 ネットに情報もなく、こんな路地裏の奥にあるお店にたどり着く人々というのは、やっぱり個性的で面白い人たちばかりなのだった。距離感も抜群で、軽く挨拶を交わすだけのときもあれば、時間を忘れて語り合うこともあった。

 オーナーと常連客の仲は日増しに深まり、年に数回だけ、夜の「常連会」も開かれるようになった。いつしか、ここは私にとって、ただのお店ではなく、本当に特別な場所へと変わっていった。

 やがて、中年ニートから作家となった私は、夜食カフェをテーマにした小説を書こうと思いついたとき、自ずと、この場所と、ここで出会った人たちの面影をなぞることになった。

 「マカン・マランふたたび」で描かれる、常連客たちのパン・パーティーは、実際にあったことだ。常連の一人が、ある日山のようにパンを焼いてお店に差し入れし、オーナーから「〇〇さんより大量のパン。来られる人、すぐ来て」と招集がかけられた。ショートメールを見た私は、締め切り直前の原稿を放り出して、お店に馳せ参じた。




 こんな日が、ずっと続くと思っていた。オーナーも、「お店をやめても、あんたたち常連のために、身体が動かなくなるまでランチは作る」と言ってくれていた。

 しかし、終わりはある日突然やってきた。

 東京オリンピックを見越した再開発。

 「周囲が売ると決めた以上、自分だけがここにいるわけにはいかない」

 オーナーの言葉に、常連たちは皆泣いた。

 現在、この裏路地はない。お店があった一帯には、大手チェーンの巨大ホテルが建てられている。

 ところが一寸先は闇。

 東京オリンピック前にオープンする予定だったホテルは、オリンピックの延期と共に、このコロナ禍で、未だに開業の目途が立っていないようだ。

 場所を変えて行う予定だった「常連会」の再開も、延期のままだ。

 夕闇の中、虚しくそびえる巨大ホテルの影を見るたび私は思う。

 有為転変。いつまでも、変わらないものはない。

 来年の今頃、私たちはどんな世界にいるのだろうか。

 



ふるうち・かずえ
東京都生まれ。映画会社勤務を経て、中国語翻訳者に。『銀色のマーメイド』で第5回ポプラ社小説大賞特別賞を受賞し、2011年にデビュー。2017年『フラダン』で第6回JBBY賞(文学作品部門)を受賞。他の著書に『マカン・マラン 二十三時の夜食カフェ』に始まる「マカン・マラン」シリーズ4作、『赤道 星降る夜』『花舞う里』『キネマトグラフィカ』『十六夜荘ノート』『鐘を鳴らす子供たち』『お誕生会クロニクル』などがある。