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私の○○ベスト3
Vol.56 永井紗耶子 私のタイムマシンスイッチ落語ベスト3


第1位 粗忽長屋
第2位 金明竹
第3位 百川



時代小説の原稿に向き合ってから、ふと外に出かけると、「あれ、電車に乗っている」ということにさえ、奇妙な感覚になることがあります。いわば「一人タイムトラベラー状態」。逆もまた然りで、久しぶりに令和の世に戻ると、再び江戸の世界に「どうやって行くんだっけ」と迷子になることも。そんな時は令和の利器、イヤホンとスマホで落語を再生。じっくり聞かせる大ネタももちろん好きですが、江戸へ行くなら明るく楽しくご陽気に。笑いながら江戸に連れて行ってくれる私のタイムマシンスイッチ落語、ベスト3。


3位 「百川」
江戸の浮世小路に実在した料亭「百川」にやって来た奉公人の百兵衛さん。田舎者で訛りが強いが、人の好い男。血気盛んな河岸の若い衆とのやり取りで、聞き間違いと言い間違いの連続からの大騒動。若い衆の「江戸っ子」プライドに、田舎者の百兵衛さんが、全く負けてない。江戸の活気が感じられ、百兵衛さんに会いたくなる。


2位 「金明竹」
 古物商の奉公人、与太郎はいつも失敗しては主である叔父に怒られてばかり。店番をしていたある時、上方の客人がやって来て主への伝言を頼む。上方言葉の早口で、古美術の難しい名前をいくつも言うので慌ててお内儀を呼ぶのだが、お内儀もそれが聞き取れない。古美術の名前の連続は、さながら呪文のようで、ついつい真似してみたくなる。落語の定番である愛されドジっ子、与太郎の魅力も楽しめる。


1位 「粗忽長屋」
 浅草の観音様の境内で行き倒れがあった。その死体を見た八五郎は、「死んでいるのは同じ長屋の熊五郎だ」と言う。しかしその熊五郎には今朝会ったばかり。役人は「この死体は昨夜から死んでいるから別人だ」と言うのだが、八五郎は譲らない。「それなら当人に確かめさせる」と連れてこられた熊五郎。これがまた粗忽なので「俺、死んでいたのに気づかなかった」と言い出して大混乱。私が好きな桃月庵白酒師匠はそこから更に展開し、八五郎までが「あれ、死んでいるのは俺かもしれない」と言い出す始末。いやいや、粗忽が過ぎるだろうと思いつつ、しみじみ聞いているうちに、ホラーやSFのような不可思議な世界観に。混沌の中で「じゃあ、俺は一体誰だい」というサゲの一言に、笑いながら、ふと「これは哲学的なのでは」と深読みするのも楽しい。



プロフィール
1977 年生まれ、神奈川県出身。慶應義塾大学文学部卒。2010 年、『絡繰り心中』で小学館文庫小説賞を受賞し、デビュー。2020 年に刊行した『商う狼 江戸商人 杉本茂十郎』で細谷正充賞、本屋が選ぶ時代小説大賞、2021 年、新田次郎文学賞を受賞。2022 年、『女人入眼』が第 167 回直木賞の候補作に。他の著書に『大奥づとめ よろずおつとめ申し候』『福を届けよ 日本橋紙問屋商い心得』『横濱王』など。