お世話になっております
File 1 一言だけ言う 町田 康
それでも、お世話になっております。と咄嗟に言ってしまったのは、そうした目に見える実際的なことではなく、精神的な部分で我輩が貴君にお世話になっているからかも知れない。
かも知れないと推し量る形なのは、貴君のどの言動がそれに当たるのかがはっきりしないからです。
それをなんとか貴君に伝えようとするなら、例えば一日の労働を終え、二階に上がって、寝台に横になった際やなんかか。まだ眠るのではなく、枕頭に放置した読みかけの本を手に取ったり、スマートホンを弄くったりなんかしているとき、貴君がそおっとやって来て胸に乗る。そのときのその姿勢に我輩は貴君の慈悲に、精神を慰撫されている感覚を覚えるンやんけざます。このような語尾の乱れ。そんな事をまったく気にしない無垢な貴君の心で貴君はなにを思うのか。そんなことを思うことこそが我輩の心の平安で。
だけどその時、貴君が我輩を癒やそうとして我輩の胸に乗ってきたのでないことを、永年、貴君と暮らしてきた我輩は熟知している。貴君は100%貴君の都合で我輩の胸に乗ってくる。だけどそれがまた、我輩の喜びになるのだ。というのは貴君らがそうやって、顔を近づけてくるのは、そうすることによって心の平安を得ているからである、というのを聞いたことがあるからで、「吁、我輩に顔を近づけることにより、この者は心の平安を得ているのだな」と思うことで我輩も亦、心の平安を得ることができるのである。こんなことを称してウインウインの関係と謂うのかね。
いやでも必ずしもそうではなく、それだけではウインウインの関係にならないと思うのは、貴君の同僚・パンク君の事をどうしても考えてしまうからだ。パンク君は貴君より体重がかなり軽い。逆に言えば体格の良い貴君は体重が重いということだ。パンク君も貴君と同じように我輩が寝台に横になるや、我輩を信頼して胸に乗ってくる。だがその時、パンク君は完全に身体を乗せてくる。そうするといかな体重の軽いパンク君と雖も重いし苦しい。ウインウインではない。ウインルーズである。だが貴君は自分の体重が重いことを知っているから、上半身だけを乗せて下半身は後ろに垂らしている。そのことによって我輩がどれほど楽なことか! これこそがウインウインであり、そしてなによりもまた、貴君のそんな気遣いがいじらしく愛おしく思えて、我輩は自らの意志とは無関係にウヒャヒャヒャと笑うてしまうのじゃよ。また語尾がおかしいな。
お世話になっております、という書き出しで貴君に宛てて書簡体で文章を綴ろうという企図は早くも崩壊しそうになつてゐる(ほらこんだ歴史的仮名遣ひだ)。書簡体って云うのは語尾から日頃の文章を崩しにかかってくるね。けどマア文字を必要としない貴君にはそんなことはどうでもよいことだな、失敬失敬。
ま、とにかく例えばそういう形でお世話になっているということをね、伝えたかったのだが、マア伝わらんわな。そもそもが貴君が上半身だけを乗せてくるのも別に気遣いとかそういったことではなく、その方が自分が楽なだけだろうしね、実際の話が。
だが、なんだろう、仮にそうだったとしても我輩は貴君にお世話になっているという実感があるんだ。それは実感はある。だけど実体はない、みたいな感じなんだな。実際の話が。
だけど、それで納得して、考えて詮ないことを考えるのを已めることができないのが我輩ら人間だ。ごろっと横になって無念無想でいられる貴君らと違うところだ。そこで我輩たち人間は実感の容れ物としての物語を拵えて安心しようとするんだよな。ははは、おもろいでせう。いやいや、おもろないか。
でもそんな人間である我輩は或る物語を思いついていた。そしてこの手紙で、それを貴君に伝えようと思っていた。それはただ寝ているだけに見える貴君が邪な心霊から我輩を守っているという物語だ。だけどそれはよそう。我輩は物語を棄てて、信者が祈りの言葉を唱えるようにただ一言だけ唱えよう。シャンティー君。お世話になっております。とね。また語尾乱れた。はは。
まちだ・こう
1962年生まれ、大阪府出身。97年「くっすん大黒」で野間文芸新人賞、Bunkamuraドゥマゴ文学賞、2000年「きれぎれ」で芥川賞、01年に詩集『土間の四十八滝』で萩原朔太郎賞、02年「権現の踊り子」で川端康成文学賞、05年『告白』で谷崎潤一郎賞、08年『宿屋めぐり』で野間文芸賞の各賞を受賞。他に『夫婦茶碗』、「猫にかまけて」シリーズ、「スピンク」シリーズ、『男の愛 たびだちの詩』『しらふで生きる 大酒飲みの決断』『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』など多数の著作がある。