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お世話になっております
File 5. いつか、はいつ来るのか。 カツセマサヒコ

お世話になっております。なんて容易い言葉で済ませていいものでしょうか。貴方が私に示してくださったご好意を考えてみれば、お世話になる、どころの話ではないことくらい、私も分かっているのです。

だから本来、ここはお礼ではなく、謝罪をすべきなのでしょう。わざわざ言うまでもございませんが、この件については、全て私が悪いのです。私が「お洒落な自転車が欲しい」などと宣い、車輪の幅が手延べうどんほどしかないロードバイクを購入してしまったばかりに、貴方に大変なお手間をおかけすることになったのです。

しかし、一つ言い訳の機会をくださるのであれば、それはやはり、「このロードバイクにはママチャリで使う一般の空気入れが使えないよ」と、あの新宿の自転車屋のニイちゃんが一言、私に忠告さえしてくれれば、こんなことにはならなかったと思うのです。

どこまでも薄っぺらくええかっこしいの私ですが、なにぶん、手間のかかるものは嫌いです。社会の窓が全て金属ボタンでできているタイプのデニムなんか、生涯で一度も買おうとしたことがありません。人生は有限であり、人類は映画を倍速視聴します。不必要な手間からはできるだけ避けて暮らしたいと、みなと同様、私も心から思っているのです。

つまり、自転車の空気くらい、どこでもさーっと入れられた方がありがたいと、私もまた思っていたわけであります。特別な空気入れを使わないとタイヤがみるみる萎んでしまうような特殊な自転車に乗ろうだなんて、これっぽっちも考えていなかったのです。たまたま購入したロードバイクが、一般の空気入れを使用できなかっただけなのです。

新宿の自転車屋のニイちゃんは、「三週間に一度は空気を入れてあげてください」と言いました。随分と手間のかかる自転車だと、その時も思いました。さらには一般の空気入れは使えないと、後から知ったのです。いい加減にしろと思いました。

そうして途方に暮れること、四週間。すでに若干元気がなくなってきた気がする私のニュー自転車は、それでも軽快な走りを見せてくれていました。ああ、どうかこの子が元気なうちに、新鮮なご飯(空気)をあげなければならない。持ち主としての責任が、やんわりとのしかかりつつあるタイミングでした。私は偶然、貴方のお店を見つけたのです。

家から近所の、小さな自転車屋さん。その店先に置いてあった空気入れは、形状から漂うオーラまで、私が持っているチャチなものとは全く違っていました。だから私はすぐに分かったのです。あの空気入れこそが、私のロードバイクの救世主だと。

覚えていますでしょうか。昨年の暑い夏の夕暮れ時。私は勇気を振り絞り、初めて貴方に、「自転車の空気を入れたい」と申し出たのです。店先でぼんやりと座っていた貴方は、今と変わらず無表情のまま「ああ、どうぞーこちらへー」と言ってくださったはずです。私が自転車を停めると、慣れた手つきで車輪を回し、見るからに特殊そうな空気入れのホースを挿しました。そうしてあっという間に、私のロードバイクのタイヤは元気いっぱいの弾力を取り戻したのです。

その時に湧き上がった、真新しい消しゴムの角を最初に使ったときのような小さな感動を、私は忘れていません。しかし、感動の対価をきちんとお支払いしようと財布を取り出したそのとき、貴方がさりげなく言った一言。そう、「あ、いらないよ」の一言です。その一言こそが、私にこんなにも多大な罪悪感を背負わせることになるとは、貴方は分かっていたのでしょうか。

あれから一年、私は毎回毎回「あ、ちょっとたまたまこの辺りを走ってたら空気の減りが気になっちゃって」とすっとぼけた顔をして、貴方の店に飛び込んでは自転車の空気を無料で入れ続けてもらっています。十二カ月連続です。

貴方はそのことに、気付いているのでしょうか? 一度だけならまだしも、毎月のペースで空気を入れにくる客(ですらない人間)がいることに、気付いていながら慈愛の精神で空気を恵んでくださっているのでしょうか? さすがに私も、そろそろ精神の限界に近づいてきています。いつか、まとまったお金を渡したいと考えているところなのです。この資本主義の時代において、無償の関係を続けるのはいささか心苦しすぎるのです。

もうすぐ、また自転車の空気を入れる時期がきます。いつかは、いつ来るのか。私は支払う心構えがとっくにできておりますので、どうか、いつでも仰っていただければと思うばかりです。



カツセ・マサヒコ
1986年、東京都生まれ。2020年刊行の『明け方の若者たち』で小説家デビュー。同作は累計14万部を超える話題作となり、翌年に映画化。ロックバンド indigo la Endとのコラボレーション小説『夜行秘密』も大きな反響を呼んだ。ファッション誌や文芸誌での連載のほか、ラジオ『NIGHT DIVER』(TOKYO FM、毎週木曜28時~)など、多方面で活躍中。