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お世話になっております
File 8. 宮下ワンさぶ子 宮下奈都

 白い柴犬、ワンさぶ子。赤ちゃんの頃に、宮下家にもらわれてきた。わが家の子どもたちが15歳、13歳、10歳のときだ。それから10年。子どもたちが全員家を出た今、私がいちばんお世話になっているのは、間違いなくワンさぶ子だといえる。
 あたりまえのようにいつもそこにいて、話を聞いてくれる。散歩のお供もしてくれる。ときどきは相談相手にもなってくれて、とんちんかんな回答をくれる。でも最もありがたいのは、ただそこにいてくれることだ。ワンさぶ子がいてくれるおかげで、私はさびしいと思ったことがない。
 気に入っていたカップでお茶を飲もうとしたら、なかなか見つからなかった。どこにしまったんだろう、そういえば最近見かけないなと思ったときに、
 「おかーさん、あのカップは割れちゃったじゃない」
 教えてくれたのもワンさぶ子だ。
 「え、そうだった?」
 すっかり忘れていた。割れちゃったんだっけ? ショックを受けている私の顔を見上げて、
 「割ったときも、おかーさんがっかりしてたよ」
 ワンさぶ子がいった。割ってしまったこともだけど、それを完全に忘れていたことはさらにショックだった。そのへんの気持ちはワンさぶ子に伝わっているかどうかわからない。ただ、よしよし、と白い前足で頭を撫でてくれた。なぐさめてくれるのはうれしいけど、そのあとすぐに「おやつちょーだい」とおすわりしたので、ちょっと興ざめだった。
 こないだは、ワンさぶ子と映画を観に行った。ワンさぶ子は10歳なので子供料金だと思ったのに、窓口の人に生年月日のわかるものを見せてくださいといわれてあきらめた。譲渡証みたいな書類にもしかしたら書いてあったのかもしれない。でも、そんなものは持ち歩いていない。しかたがない。ペア50割とかいう、ペアのどちらかが50歳以上なら使える割引で少し安くなった。ワンさぶ子はお金のことは気にしないので、子供料金でもペア50割でもどっちでもよかったみたいだ。ポップコーンとコーラを買って、はしゃいで座席につく姿がいじらしかった。
 映画は私にはとてもおもしろかったのだけど、ワンさぶ子にはたいくつだったようだ。途中からうとうとしているのがわかった。それでもおとなしく観ていたのはえらかったと思う。映画が終わってから、
 「あの写真屋さんのおじさん、柴田元幸さんに似てたけど、そんなわけないよね」
 私がいうと、
 「あ、それね! それ思ったよね」
 などと話を合わせてくれた。
 何年か前に、アラブ首長国連邦でのブックフェアに参加したとき、現地の作家との対談の会場に柴田元幸さんが来てくださったことがあった。客席に憧れの柴田元幸さんがいることで、異常に緊張してしまった。今だからいえるけれど、私の話す日本語から英語に翻訳されたものを、英語からアラビア語に翻訳して相手に伝わり、そのアラビア語の返答をまた英語に翻訳して、そこからまた日本語に翻訳して、私が聞いて返答して、というややこしい段階を経てなされた対談は、途中からぐだぐだだった。自分の言葉が、おそろしく長い時間をかけて相手に届く。でもたぶん翻訳される過程でずいぶん変化してしまうそれを、相手の作家が待てないでいるのが伝わってきて、とてもじれったかった。せめて英語が話せればいいのに、と思った。言葉が伝わらないと話にならないのだと、いうまでもないことを何度も思いながら、なんとか最後までやり終えた。挨拶も握手もなく解散した。立派な会場ブースの天井を見上げてため息を吐く。むなしく歩いていると、柴田元幸さんが「よい対談でした」と声をかけてくださったのだ。えっ、と思った。いえいえいえ、いえいえいえいえ、と私は首を何度も振った。まったくだめだったのは自分がよくよくわかっていた。
 「それなのに柴田元幸さんは、よい対談だったとねぎらってくださったんだよ。どれだけ寛容な人なんだろうね……」
 私が感慨に耽っていると、ワンさぶ子は隣でまたうとうとしていた。ごめんね、ワンさぶ子。10歳だと、映画を観て、そこから呼び起こされる感情や記憶に揺さぶられたりするのはまだむずかしいよね。
 ちなみに、3人の子どもたちもそれぞれの場所で同じ映画を観て、感想を話してくれたりした。ワンさぶ子はそのときも、うんうん、そうだね、と相槌を打ったり、それはどうかと思うよ、などと疑問を投げかけたりしていた。子どもたちもワンさぶ子と話すのが大好きなのだ。
 あっ、そうだ、大事なことを忘れていた。ワンさぶ子との毎日を書いて、一冊の本をつくったこともあった。『ワンさぶ子の怠惰な冒険』(光文社文庫)がそれである。ワンさぶ子にはお世話になっております、というほかない。



みやした・なつ
1967年福井県生まれ。2004年「静かな雨」で文學界新人賞佳作に入選、デビュー。07年刊行『スコーレ№4』(光文社)が話題に。2011年刊行の『誰かが足りない』(双葉社)が本屋大賞7位。2015年秋に上梓された『羊と鋼の森』(文藝春秋)は直木賞候補となったほか、キノベス!2016第1位、王様のブランチブックアワード大賞に選ばれ、2016年本屋大賞に輝いた。主な著書に『よろこびの歌』『終わらない歌』、エッセイ集『はじめからその話をすればよかった』『緑の庭で寝ころんで』(いずれも実業之日本社)、『太陽のパスタ、豆のスープ』(集英社)、エッセイ集『神さまたちの遊ぶ庭』『ワンさぶ子の怠惰な冒険』(いずれも光文社)などがある。